受け入れることとは

皆さん、こんにちは。

岩尾です。

 

今日は、ふと気づいたことを書きます。

 

たまに、

「この子が難聴で生まれたからこそ今の自分たちがある。この子が難聴で生まれてきてよかった」

という言葉を記事などで見つけることがあります。

 

僕は、

「いやいや、難聴で良かったなわけはないやろ!」

と思ってました。

 

ただ、今日ふと、自分が浅はかだったなと気づきました。

 

実はちょっと前に、ネット記事で、

昔は、「聞こえないことはよくない!」ということで、必死に口話を訓練してきた経緯があるが、

聞こえなくてもいいじゃないかと、聞こえないことを受け入れて手話で生きる道も認められる社会にしていった方がいいですよねというものを読みました。

 

まあ、この記事の論調はちょっと口話を否定的に捉える感じがしましたが、僕は口話ができるようになることは肯定的に捉えてますが、どちらの道もあっていいじゃないかということには心から賛同します。

選ぶことできる社会であってほしいと僕も思います。

 

で、聞こえないことは良くないから口話ができるようにしないといけないというのは極端な意見と思いますが、

確かに、聞こえないより聞こえるに越したことはないという思いは僕にあって、

先の「この子が難聴で良かった」と言える親御さんは、本当に我が子を受け入れている素敵な親御さんなんだなと気づきました。

 

決して、聞こえない自分の子どもは悪いとかは思ってませんが、聞こえるに越したことはないよなという思いはぬぐえてないわけで、本当の意味ではまだ受け入れられてないのかなと感じました。

 

娘が難聴で良かったと思えるイメージはまだできないけど、

そのままの娘が大好きでいたいとは思ってますし、

聞こえたらもっとよかったのにではなく、そのままのお前が大好きだと心から言える親でいたいと思いました。

 

あいかわらずまだまだな親ですね(笑)